・No.38「背番号42」4/19/05
ジョージアの農場で働いていた父親は、ジャッキーが生まれて数ヶ月後に突然姿を消してしまいました。母親は家政婦の職を求めて5人の子供を連れてカリフォルニアのパサデナに移り住んだのですが、白人が暮らすこの住宅地で、黒人一家であるジャッキーたちは多くの嫌がらせを受けることになったのです。そしてティーンエイジャーになったジャッキーは不良仲間と連むようになり、警察の世話になることもありました。
ジャック・ロビンソン(Jack Roosevelt
Robinson)は1919年1月31日、5人兄弟の末っ子としてジョージア州に生まれました。厳しい人種差別の中、子供達のためにひとり懸命に働く母親を見ながら育ったにもかかわらず、ジャッキーは非行の道へと走りました。そんな彼を変えたのは、近所のおじさんがくれたこんな言葉でした。
「君はただ他人に追従しているだけだ。そんなことは誰にでもできる。大切なことは、君自身の人生を生きることだ」。
スポーツの才能に恵まれていたジャッキーは、高校生になるとその実力を見せ始めます。やがてUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に奨学金を得て入学した彼は、バスケット・ボールで2年連続の得点王になり、走り幅跳びで全米記録を更新、フットボールや野球でも国内有数のプレイヤーとして注目されていました。
そして1945年、メイジャー・リーガーをめざしてボストン・レッドソックスの入団テストを受けました。しかし球団は彼の実力を大いに認めたものの入団を拒否してきたのです。理由は「ジャッキーが黒人だから」でした。
当時、黒人が野球をやりたいと思ったら、黒人だけで組織されているニグロ・リーグに参加するしかありませんでした。プロ野球選手の夢を捨てられないジャッキーは、ニグロ・リーグの中でも名門とされていたカンサスシティー・モナクスに入団が決まります。全米をバスで移動し、遠征先では食事も寝泊まりもバスのなかでした。黒人に食事を出してくれるレストランも、宿を提供してくれるホテルもほとんどなかったからです。
奇跡はドジャーズのGM兼会長のブランチ・リッキー氏によってもたらされました。彼は新しい黒人チームを作ると言って、スカウトに力のある黒人選手を探させていたのです。そして自己統率力と野球の才能を併せ持つジャッキーを見つけると、すぐに事務所に呼びつけました。
1945年8月28日、ジャッキーがブランチ・リッキーとの面接で聞かされた契約内容は、まったく予想外のものでした。ブランチは野球界における人種差別がどれだけ厳しいものかを淡々と説明してからこう尋ねました。
「どんな嫌がらせや暴力を受けても、決して仕返しや反抗をしないと約束できるのであれば、メイジャーでプレーして欲しいんだ。売られたケンカを買わずに紳士的にプレイできるだけの勇気をもった選手が欲しいのだよ」
こうして契約書にサインしたジャッキー、まずはドジャーズ傘下のマイナー・リーグ・チーム、モントリオール・ロイヤルズでプレイすることになりました。
最初の試合で5打数4安打、3打点、2盗塁と活躍したジャッキーは、その後出場した12試合のうち10試合でヒットを放ち、17得点をあげる活躍をしました。もちろんその陰にはたくさんの嫌がらせがありました。特に敵地での試合では、ジャッキーがグラウンドに出ているあいだじゅう、ブーイングと罵声の嵐が絶えませんでした。そして人種差別の激しい南部の街では、試合に出ることすら許されなかったのです。
それでもジャッキーの活躍も手伝ってチームは首位を走り、ついにはマイナーリーグの覇者を決めるリトルワールドシリーズへ出場、敵地で苦戦を強いられながらも、ホームでの連勝で一気に優勝を決めたのです。
1947年4月15日、ジャッキーはついにメイジャー・チーム、ブルックリン・ドジャーズへ昇格となりました。しかし新たな人種差別による攻撃は、まずチームメイトからはじまりました。「ジャッキーがチームに加わるのなら、プレイはしない」という声が選手から上がりました。ブランチ・リッキーは激怒して、撤回しないのであれば解雇すると言い放ちました。その場はなんとか収まったものの、チーム内の人種差別は厳しく、ジャッキーに話しかける選手はありませんでした。
ようやくメイジャー・デビューを果たしたジャッキーでしたが、肝心のプレイでも精彩を欠きます。はじめの1週間はまったく活躍できず、敵チームからは、今までにないほどの罵声を浴びることになります。自称黒人嫌いで知られる敵の監督が先頭に立って、ヤジの音頭をとったこともありました。「相手のベンチまで行って殴りつけてやろうか?」ジャッキーはこのときほど暴力でやり返す衝動に駆られたことはないと後に語っています。
しかしジャッキーは暴力の道は選びませんでした。深呼吸して落ち着くと、静かにバッターボックスに入ったのです。するとその時、ドジャーズのベンチから出てきたひとりの選手が相手に向かって叫びました。「どうして言い返せない相手にばかりヤジを飛ばすんだ?この臆病者!」。相手監督の汚い攻撃が、逆にドジャーズの選手の心を動かしたのです。
ほとんど全ての対戦相手チームがジャッキーに嫌がらせをしました。ヤジだけに収まらず、1塁の守備につくジャッキーにスパイクの歯をむけてスライディングするのは当たり前のことでした。時に足から血を流しながらも文句を言わずに黙って痛みをこらえるジャッキー。しかしその姿に「もうこんなことはやめよう」と思う選手も増え始めました。ドジャーズのチーム・メイトたちもジャッキーが仲間であることをアピールし始めます。グラウンドで気さくに声をかけ、時には近づいて手を肩に回しながら笑談することさえありました。ヤジを飛ばしていた観客や敵チームも、最後には黙るしかありませんでした。
結局シーズンが終わる頃には、多くの選手がジャッキーの紳士な姿に敬意を払うようになりました。選手としてのプレイも素晴らしく、打率297、12HR48打点、29盗塁という成績が評価され、その年に新設されたばかりの「新人賞」が贈られることになりました。今でもメイジャーの新人賞は「ジャッキー・ロビンソン賞」と呼ばれています。
今や人種の壁どころか、外国人枠という規制すらないメイジャー・リーグ。ハンク・アーロンをはじめ、ボンズやソーサといったスター選手やアジア人選手の活躍も、すべてはジャッキーの紳士的なプレイと差別に屈しない勇気が始まりだったと言えるでしょう。彼のつけていた背番号42は、今ではメイジャー・リーグ全てのチームで永久欠番とされています。
「他人の人生に影響を与えてこそ、人生には意味がある」。他人に追従することなく、自らの人生を生きたジャッキーが残した言葉です。
「ブランチ・リッキー」
初めてメイジャー・リーグに黒人を起用したブランチ・リッキーとはどんな人だったのでしょうか?ジャッキーがメイジャー・デビューを果たした恩人ともいえるブランチには、40年前から温めていたある計画があったのです。
大学の野球チームの監督をしていた頃、彼のチームにはチャーリー・トーマスという黒人の選手がいました。遠征先のホテル、黒人だからという理由で宿泊を拒否されたチャーリーを、ブランチは自分の部屋に泊めてやりました。その夜、チャーリーはいいました。「監督。ボクのこの黒い肌がもし白ければ、みんなと一緒になれるのでしょ?」。
ブランチは後にこう語っています。「私はそのとき誓った。チャーリーのような思いをするアメリカ人をなくすために、自分にできることはなんでもすると」。
根深い人種差別を敵に回し、黒人プレイヤーを世に送り出すのがいかに難しいか、彼はわかっていました。だからすぐに行動を起こすようなことはせず、自分の実績と地位と影響力が十分なものになるまで待ったのです。
ブランチは選手を見る目に長けていました。昨年イチローが破った年間最多安打記録を持っていたジョージ・シスラーもまた、大学時代からブランチ・リッキーによって育てられた選手の一人です。そして1942年にドジャーズのGMに就任する頃には、アメリカの球界でその実力が十分に評価されていました。
ある時、彼は動き始めました。新しいく黒人チームを作るためと偽って、黒人選手のスカウトに乗り出したのです。そして野球の腕はもちろん、どんな嫌がらせにも屈しない精神力をもったジャッキーに出会うことになったのでした。
★ Books
「ジャッキー・ロビンソン物語」
彼の人生に興味を持った方にお勧めです。今回紹介できなかった、引退後のジャッキーの社会活動にも触れています。
「黒人初の大リーガー―ジャッキー・ロビンソン自伝」
こちらは本人執筆の自伝。 |
バックナンバー
・創刊号 7/27/04
「どうしてこんなにアメリカが好きなのだろう?」
・No.01「THE KING」 8/3/04
・No.02「Chasers 追跡者たち」8/10/04
・No.03「オズ」8/17/04
・No.04「ウォーレン・バフェット」8/24/04
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・No.52「約束の地」7/26/05 |