US万次郎:「Ellis Island」


   

 メルマガ「アメリカ生活アドバイザーの随想」(7/27/04-7/26/05)を再編集したものです。

・No.51「Ellis Island」7/19/05

 1910年当時、ヨーロッパからニューヨークまでの三等船室のチケットは15ドルでした。決して裕福ではない人々でも、少しばかりがんばれば手の届く値段だったのです。様々な言語を話す人々が最初に覚える英語は「America」そして「三等船室」を意味する「Steerage」でした。3週間に渡る航海のあいだ、言葉の通じない者どうしが窓のない船底の暗い船室に押し込まれ、嵐の時には船酔いに苦しみ、穏やかな日にはアコーディオンにあわせて歌い踊り、新しい自由の国を目指したのです。

 ニューヨーク港に近づくと最初に「自由の女神」が船を迎え入れてくれました。人々はデッキに出ると争うように先へ進み、巨大な像を見上げ「自由の国」の出迎えを受けたのでした。女神像の台座には、詩人エマ・ラザルスの一節が刻まれています。

 「疲れ、貧しい人たちを私の元に送りなさい。自由の空気を熱望する人たちを身を寄せ合う哀れな人たちを、住む家もなく嵐にもまれし人たちを私の元に送りなさい。私は黄金の扉のところで灯を掲げています」。

 船はまずマンハッタンに横付けされると、そこで一等船室とキャビンクラスの乗客を降ろしました。そして残った移民達を乗せ、1マイルほど南に浮かぶエリス島(Ellis Island)へ向かったのです。

 探検家、商人、金を求めた冒険者たち。建国当初から様々な移民を受け入れてきたアメリカでしたが、1840年頃から、さらに大勢の移民たちが、自国の厳しい生活環境から逃れてやってきました。その頃、ヨーロッパ全土では作物の不作と人口増による飢餓が広がり、各国の政情も不安定でした。アイルランドでは食糧難から75万人が餓死し、わずか1年のあいだに12万人近くの人たちが国を離れ、アメリカを目指しました。ドイツでは連邦による革命が失敗に終わり、多くのドイツ人が国を後にしています。1880年代に入ると東欧でユダヤ人の集団虐殺が行われ、その後45年のあいだに200万を越えるユダヤ人がアメリカへ逃げてきました。こうして増え続ける移民の入国管理のために、アメリカ政府は1892年、ニューヨーク湾のエリス島に入国管理事務所を設置したのです。

 エリス島の入国管理事務所では、到着したばかりの移民達が入国許可を得るための様々な手続きのために、日々長い列を作っていました。入国審査は、問題がなければ5時間ほどで終わりましたが、時には数日間、島から出られない人もいました。もちろん、やっとたどり着いたアメリカ本土に足をつくこともできず、そのまま強制送還となる人たちもいたのです。

 入国審査ではインタビューと健康診断が行われました。管理事務所内にはイタリア語、ギリシャ語、クロアチア語、ポーランド語、ドイツ語などのアナウンスが響き渡り、名前と出身地、お金はどのくらい持っているか、アメリカでどんな仕事に就きたいかなどの質問がなされました。医師たちは手にチョークを持って健康診断にあたっていました。そして診断結果を表す記号を、移民たちのコートに直接書いていったのです。心臓に問題がある者は「H」、発疹がある者は「F」、頭皮の伝染病は「Sc」、そしてヘルニアを患っている者は「K」で表しました。移民達のあいだで最も恐れられた記号は「X」でした。これは精神病と診断された者につけられる記号で、同時に強制送還を意味していたのです。

 エリス島にやってきた移民の6人に1人が、なんらかの病気を理由に島に残されました。その後、より詳しい検査と面接が行われ、そのほとんどが入国を許可されました。それでも全体の2%ほどの人々は強制送還を言い渡されたのです。途中で逃げ出して海を泳いで渡ろうとしては、潮にながされおぼれ死ぬ人も少なくありませんでした。また、連れてきた子供4人のうち1人だけが入国を許可されず、10歳そこそこの子供がひとり、自国へと送り帰されることもあったそうです。

 家族が離ればなれになってもなお、アメリカに残ろうとしたのはなぜなのでしょう?アイルランドや西ヨーロッパの飢餓、ユダヤ人の虐殺、東ヨーロッパの貧困といった悲惨な状況の中で、アメリカでは誰もが億万長者だという風説がありました。先に移住した親戚達からの便りは、豊かな新天地の生活を華々しく語っていたのです。ところが、エリス島からマンハッタンに降り立った人たちが目にしたのは、彼らの想像を遙かに超えた世界でした。どこまでもそびえ立つ巨大な建物、様々な肌の色を持つ人と自動車が行き交い、見たこともない食べ物と聞いたことのない言語が飛び交う街。頼りにしていた親戚は迎えには現れず、何もわからないまま街をさまよう人たちも少なくありませんでした。

 彼らの多くはニューヨークで、それぞれの出身国ごとにコミュニティをつくって生活していました。当時のこの街ではローマよりイタリア人が多く、ブレーメンよりドイツ人が多く、ダブリンよりもアイルランド人が多かったと言われています。彼らは自分たちの言語で話し、故郷から送られてきたものを売っている店で買い物をしました。仕事さえあれば、食べることに困ることはありません。アメリカに慣れるまでは孤独で寂しい生活が続きます。それでも一度アメリカを知ってしまったら、もう惨めな昔の生活には戻れないと、誰もが思っていたようです。

 しかし彼らの子供達はコミュニティにとらわれずに仲間をつくっていきました。大人達よりも速く英語を習得し、アメリカの文化と生活様式に慣れ、現地の学校に通い、アメリカ人になっていったのです。豊かな生活を求め、どんな仕事でも必死にこなしました。チャンスを見つけては起業し、富を築いていったのです。

 やがてアメリカ生まれの真のアメリカ人が増えだすと、必要以上の移民の増加を嫌い、自分たちのための雇用を確保するために移民法改正を訴えはじめました。1921年に移民の人数を制限する法案が通ると、それまで無制限になだれ込んできた移民の数は激減していくことになります。

 しかしエリス島を通ってアメリカにやってきた人々が、その後のアメリカをつくっていったことは間違いありません。彼らは他の誰よりもたくさん働き、学び街をつくり、荒野を開拓していきました。エリス島の入国管理事務所で通訳をしていたイタリア人のフィオレロ・ラ・ガルディアは、やがて誰からも尊敬されるニューヨーク市長になり、アイルランドの飢餓から逃げ出してきたパトリック・ケネディーの曾孫は、第35代アメリカ大統領になったのです。


「自由なき自由の国」

 希望を持ってアメリカに渡ってきた人々。一方、自らの権利を無視され、虐待を受けた人々がいたことも事実です。最初の入植者がアメリカ大陸にやってきてから、先住民、ネイティブ・アメリカンたちの苦悩ははじまりました。さまざまな条約を押しつけられ、土地を奪われ、戦い、追いつめられていったのです。一説によると、アメリカには150万ものネイティブ・アメリカンたちが暮らしていたとされていますが、1920年にはわずか35万人にまで減ってしまいます。アメリカ政府は指定居留地を定めると、彼らを強制的にそこへ押し込み、経済援助を与えるようになりました。現在、ネイティブ・アメリカンの人口は約200万人といわれていますが、そのうち居留地に留まり、彼らの生活文化をなんとか維持しているのは、全体の1/3ほどの人たちしかいません。

 自分たちの意志に関わらず、強制的にアメリカに連れてこられた人々もいます。奴隷としてとらえられたアフリカの人々です。1808年に奴隷輸入が禁じられるまでのあいだに、50万人以上のアフリカ人がアメリカに連れてこられました。その後も南部の農場では彼らの労働力を頼って「奴隷を所有する」習慣が残ったのです。

 1863年のリンカーンによる奴隷解放宣言から、1865年の合衆国憲法修正第13条による奴隷制度の廃止をもってもなお、彼らに対する差別の歴史は続きます。奴隷から解放されたにもかかわらず、街に出ても職には就けず、ゲットーと呼ばれる隔離された地区での生活を余儀なくされました。


★ Websites

エリス島(Ellis Island)アメリカ移民の窓口」  

 エリス島移民博物館の様子を、写真付きで解説しています。当時の移民たちの写真など、興味深い資料がたくさん見られます。

The Statue of Liberty-Ellis Island Foundation, Inc.」  

 エリス島を通って移民してきた人たち、2500万人のデータベースのほか、当時の資料が保管・管理されています。

バックナンバー

・創刊号 7/27/04
 「
どうしてこんなにアメリカが好きなのだろう?

・No.01「THE KING」 8/3/04

・No.02「Chasers 追跡者たち」8/10/04

・No.03「オズ」8/17/04

・No.04「ウォーレン・バフェット」8/24/04

・No.05「Manifesto Destiny」8/31/04

・No.06「UP and DOWN」9/7/04

・No.07「一攫千金」9/14/04

・No.08「THE DRIVE」9/21/04

・No.09「スタインベック」9/28/04

・No.10「バーバンクの魔術師」10/5/04

・No.11「フラミンゴ」10/12/04

・No.12「ラバ遣いが観た宇宙」10/19/04

・No.13「Mickey D's」10/26/04

・No.14「世界の始まり」11/2/04

・No.15「リーディング」11/9/04

・No.16「MEN IN BLACK」11/16/04

・No.17「大統領への手紙」11/23/04

・No.18「」11/30/04

・No.19「ボニーとクライド」12/7/04

・No.20「アポロ計画」12/14/04

・No.21「Remember the Alamo!」12/21/04

・No.22「What a Wonderful World」12/28/04

・No.23「KO」1/4/05

・No.24「Masters」1/11/05

・No.25「MTV cops」1/18/05

・No.26「フライヤー」1/25/05

・No.27「Sexual Elegance」2/1/05

・No.28「TRUMP」2/8/05

・No.29「WTC」2/15/05

・No.30「AMEX」2/22/05

・No.31「灯りが灯るまで」3/1/05

・No.32「Blues Bros.」3/8/05

・No.33「Indy 500」3/15/05

・No.34「ハーランドの受難」3/22/05

・No.35「The Music City」3/29/05

・No.36「Buried Alive In The Blues」4/5/05

・No.37「America's Cup」4/12/05

・No.38「背番号42」4/19/05

・No.39「白人マイノリティー」4/26/05

・No.40「イエロージャーナリズム」5/3/05

・No.41「ディマジオの恋」5/10/05

・No.42「Peanuts」5/17/05

・No.43「Chocolate Town」5/24/05

・No.44「Enterprise」6/1/05

・No.45「Amblin」6/7/05

・No.46「SETI」6/14/05

・No.47「」6/21/05

・No.48「ARPA」6/28/05

・No.49「The United Taste of America」7/5/05

・No.50「カリフォルニア・ワイン」7/12/05

・No.51「Ellis Island」7/19/05

・No.52「約束の地」7/26/05

筆者プロフィール  |  Contact:manjiro@usmanjiro.com
  

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